「あの頃に戻る」は正しいか?

6月1日から、新宿ゴールデン街のプチ文壇バーで、店番を担当した。だいたい2ヶ月くらいの自粛期間だった。(その間の活動についてはYouTubeのこちらの動画を見てほしい)事前に、客席を10席から5席に制限し、常に換気するようドアを開け、来店したお客さんの手の消毒を必須とするという条件で、試験的にオープンしたのだ。

店を開けるまでは不安半分、うれしさ半分だった。ゴールデン街地域(ひいては歌舞伎町全体)は、緊急事態宣言前からクラスター感染の確率が非常に高いと、東京都側から注意喚起を受けていたし、今後第二波による影響が無いとは限らない。個々の飲食店が営業に十分に気をつけたとしても、街全体の人口が過密になれば問題は起こりやすいだろう。

久しぶりの「月に吠える」では、よく店に来てくださっている方々が数名来てくれて、店の今後の話やそれぞれの近況、ここには書けないような不謹慎ネタを愉快に話し合って終わった。「初めて来ました!」というお客さんは現れなかったが、仕方ないだろう。みんなと一夜を過ごせたのが何より嬉しかった。

今後ゴールデン街がどうなるかは分からない。関係者からは「いつもどおりの営業がしたい」という声も聞こえてくるが、その「いつもどおり」が返ってくるのかも不明だ。これから楽しい場を生み出すための全く新しいやり方の模索も必要だろう。

そう語ると「もうあの頃には戻れないのか…」と落胆する人も少なくないはずだ。僕は5年程度しか店番を続けていない若輩者なので、人生の大切な時期のほとんどをゴールデン街で過ごした方の気持ちを汲むことは難しい。店に入れず、すっかり意気消沈してしまったご年配の方がいるという話も友人から耳にした。奪われたものはあまりに大きい。

ただゴールデン街自体は頻ぱんに変化する街であるとも思っている。そのことを証明しているのが、老舗「ナベサン」の店主で、2003年に他界された渡辺秀綱氏の著書『新宿ゴールデン街物語』(講談社)だ。

この本では街の劇的な変化の様子が読み取れる。昭和24年頃に立ち上がった「竜宮マート」という屋台市場(闇市)に端を発し、“青線”とよばれる売春地帯へと発展、その後小説家や演劇人が多く集まる文化的地域として成長していく過程が、当時の現場の人たちの証言をはさみつつ、つぶさに紹介されているからだ。

例えば、当時の紀伊國屋書店社長・田辺茂一氏がなぜゴールデン街に通わないかを聞かれ、「青春時代は来たがね、売春防止法以降はこの街がキタナクなったから来なかったよ」と話す下りがある。注目すべきは、ゴールデン街のイメージとしてよく挙げられる「キタナイ」が、青線以降のものかもしれない点だ。衛生面含めた雰囲気の問題だろうが、おそらく青線時代のほうが街全体に華やかさが演出されていたと想像できる。色っぽい飾りを剥ぎ、ただの殺風景な装いになった店が年月を重ねるにつれ、“味”が出てきたのかもしれない。(この辺りは自分の想像込みなので、詳細な文献などあれば、HPにコメントしてくれるとありがたい)

また1980年代以降のゴールデン街も、現在のそれと雰囲気が異なることを記した本がある。青山真治とたむらまさきの共著『酔眼のまち ゴールデン街』(朝日新聞社)である。特に「ゴールデン街の変容」という章では、たむら氏によるこのような証言が収録されている。

「毎日人が溢れてた」ゴールデン街、というふうに言っていたけど、九十年代の前半あたりから徐々に人が減ってきつつありましたね。(中略)やっぱりいちばん人が来てたのは八十年代の初め頃じゃないかなあ。本当にワイワイ、ワイワイ連日連夜、おしゃべりして喧嘩してというのは。

『酔眼のまち ゴールデン街』(朝日新聞社)

これに対応して、青山真治氏も九十年代以降のゴールデン街に対してこのような感想を話している。

初めて足を踏み入れた頃(九五年)は、まだわりと電気がついていたけど。ほんの二、三年の間にはもうばたばたばたーっと火が消えたようになっていた。あれっと思って、あれっ、何か寂しいねという感じはしましたね。それが九〇年代後半で、その後またどんどん新しい店が入ってくるというのが二〇〇〇年とかからじゃないかな。

『酔眼のまち ゴールデン街』(朝日新聞社)

このやりとりの背景には九〇年代前半に起きたバブル崩壊後の経営不振と、地上げ屋による土地買取がある。当時の常連の方に話を聞いたことがあるが、そこかしこのシャッターが降りて静かだったと聞いている。また地上げ屋が店のウイスキー瓶を次々と割っていったという話とか…。

以降、家賃の下がった場所に新たな店がオープンし、客層も若い人が多く見られるようになり、2000年代後半からは海外からの観光客が押し寄せるようになった…というのが簡単な流れである。

何が言いたいかといえば「もうあの頃には戻れないのか…」と発するとき、それが「どの頃」を指しているのかが問題だということだ。ある人にとっては輝かしい80年代の賑わいかもしれないし、ある人にとっては70年代の左翼運動と密接に絡んだ時期かもしれない(その辺りは佐々木美智子著『新宿、わたしの解放区』などに詳しい)。また人に聞いた話だと、リーマンショック以前以降でも客層が変わったとのことだったので、2000年代以降でも「あの頃」の幅をますます限定しなければならないだろう。

僕が店番をはじめてからの5年でも変化はかなり感じている。特に強烈だったのは昨年のラグビーワールドカップの頃で、一部ニュースでも取り上げられていたが、散々な荒れ具合だった。具体的には書かないが(※希望があれば書くかも)、海外観光客のトラブル対処に見舞われ、はじめて「ゴールデン街はもういいかな…」と心底思ってしまうほどだった。

誤解してほしくないが、海外観光客に来てほしくないという訳ではない。ラグビー以前はかなり楽しく海外の方ともコミュニケーションをとれていたし、それが店全体の雰囲気を楽しくすることもあった。問題なのは海外からくる彼ら彼女らにとって、ゴールデン街が(どういう訳か)「みんなで騒げる自由な場所」と認知されてしまっていたことだ。狭い面積に店がひしめき合う街のため、個々の店は大人数が一斉にきても大丈夫な形態には対応していない。2、3名がフラリと来るのは歓迎できるが、10名以上で来られると、もうコントロールがきかなくなる。

また観光客が多くなることは、次の回を想定した会話が続けづらいことも意味している。ゴールデン街のお店は、お客さんが何度か来て会話をして、それが色んな人達と共有されることで、その場にルールや文化、思い出などが溜まっていくものだ。その溜まってきたものの一部を味わいたくて「ブラリと立ち寄りたくなる」人も多いはずである。つまり一度きりの観光客ばかりが相手になると溜まるものがなく、コミュニケーションも薄くなっていってしまうのだ。

もちろん観光向けの店に変更するのも商売上大事な戦略だし、そういう店もあって良いと考えているが、個人的には「じゃあ自分は面白くないな」と思ってしまう。ということで、迫りくる2020年オリンピック、スタッフの自分はどうすればいいのだろうかと去年の冬頃まで悩んでいたのである。

しかし皮肉にもコロナの影響で、海外観光客はバッタリ途絶え、オリンピックも中止。この悩みも忘れられてしまったのである。というわけで僕が「あの頃に戻りたい」と語ったとしても「あの頃って言っても、またラグビーの頃みたいなのはイヤだなー」と思ってしまうのだ。

なので、そもそも感傷を起因とした「あの頃に戻る」ではなく「あの頃にも無かった素敵な何かを探す」と考えたほうが、よっぽど健全だと思っている。コロナを言い訳にして、これまでやってこなかったスタイルを色々試しても文句言われにくいだろうから「こうすると面白いかも!」というアイデアをみんなで話した方が面白いはずだ。

例えば「月に吠える」で週に一度「おしゃべり禁止の回」を設けてみるとか。その場にある本を読んだり、ノートに文字を書いてコミュニケーションしたりはOK。会話がないことで、返ってその時間をみんなと一緒に過ごしたという感覚を強く持てるかもしれない。

結局、結論は序盤に書いた「これから楽しい場を生み出すための全く新しいやり方の模索も必要だろう」に戻ってくる。楽しかったり居心地よかったりする場所は、(スタッフもお客側も含めた)みんなが考えていかないと作れはしないので、当然といえば当然だ。

おそらくゴールデン街の住民の諸先輩方も時代の波に合わせて、より良い場所にするにはどうすべきかをアレコレ考えた結果、今につながっているわけだ。もし「ゴールデン街」という看板が別のものに変わったとしても、変化に対応しながら場所を生み出していく強かさは続いているのではないだろうか。不遜ながら、そんなことを考えている。

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