革靴一足買うだけで

ずっと欲しいと思っていた革靴を買って、近所を散歩して、それだけで自分自身がとても充足していると分かって驚いた。たったの靴一足を買っただけで、少し街を歩くのが恥ずかしくなくなるというか、「もう少し堂々としていても良いのでは?」と思ってしまうのは、ちょっと信じられない。逆に自分はそれだけのことでテンションが上がってしまうような、心が移ろいやすく、芯のない人間だったのか。

大学生の頃、お洒落が本当に苦手で、服や靴にこだわっている人間をみると心の底でうっすらとバカにしていたことを、ここに懺悔しておく。どこで感染した思想なのかは覚えていないが「外面にこだわる人間は内面に磨きをかけられない薄っぺらい存在だ」といった強固な思い込みがあった。そんなことより好きな本や音楽に時間をかけることの方がもっぱら大切で、そういった精神の充実はいずれ外面にも表れるもの……といった奇妙な考え方をしていたように思う。別にファッションも本も音楽も、すべて好きになれれば良かっただけの話なのに。

もちろん、学生時代にそんな色んなものに手を出すほどのお金が無かったのも大きかったと思う。ただ、それだけでは周囲のオシャレな人間をバカにしていたことの理由としては足らない。「酸っぱい葡萄」のように「欲しいけれど、どうせ、あれは価値のないものなんだ、諦めるしかない」と考えたこともあったかもしれないが、それ以上に「どうせ自分は何をやってもダメなんだ」という根本の自信の無さの方が、当時の考え方に影響しているかもしれない。

要するに「今の自分はそもそも周りに認められる存在ではない。そんな自分が何かオシャレをしたところで良くなることはない。むしろ『粋がりやがって』とバカにされるのがオチだ」といった諦め方をしていて、そんな自分のダメさを「どうにかしなきゃ」となったときに目を向けたのが読書とか読書会とか、そっちだったという話だ。

そもそも選択肢に「外見を何とかする」といったことが無かった。だからオシャレ人間への嫉妬は「外見を整えるだけで、真っ当な人間として扱われるなんて、あなた方はハードルが低い人生でいいですね」という邪悪な感情に裏打ちされたものだったと思う(嫌な奴だな……)。

だから「自分の問題」はもっぱら「内面を鍛えることで解消されるもの」という思い込みがあって、若い頃はTwitterで読書話をするのに異常なほど執心したし、それが周囲に受けると「あ、自分は成長できたんだ」と躍起になって、すぐ調子にのった(自分に自信の無い人間ほど、少しうまくいくと虚勢を張る傾向にあるのはご承知の通り)。だが外面は相変わらず貧相なまま。筋トレの用語で「チキンレッグ」なんて言葉があるが、傍から見ればそういうものだったと思う(それこそ笑い者だ)。

つまり30歳までの人生は、なんというか「オシャレ縛り」でゲームプレイをやっていたわけだ。それによって得たものもあったかもしれないが「精神の充足の結果、外見も充足した」かというと、そんなことはないわけで、ただの疲れた外見の中年ができあがっただけの気がする。よく考えればステータスを全然振ってないのに、他のステータスで補うことなんて土台無理な話だ。ゲームだとすぐに飲み込める理屈が、なぜ現実だとそう簡単には飲み込めなかったのか。

ふと、オシャレしてみようと思ったのは30歳以降、世間がコロナで大変になってからだった。その当時の考え方は「これで世の中は気軽に出歩けなくなったので、誰も自分の見た目を変に思う人はいない。であれば、ちょっと自由に服を選んでも良いじゃないか!」という、ねじれにねじれた理由だったと覚えている。

さっそく買ったのは和服。そんな上等なものではないが、袖を通して街を歩いて、それで満足だった。着ているうちに慣れて、そこそこ人がいる場所に向かうのも平気になった。バーに立つときも和服でいると案外しっくりきて、お客さんにも何故か評判良かったから、夏場の営業はそれが定番にもなった。そのうち、自分の財布が許す範囲で、スカートっぽい形状の袴ズボンだったり、無印良品の中華系デザインの服だったりを買ったりもした。

このファッションの傾向には、自分の今の仕事であるVR系でのトレンドも大きく関わっている気がする。バーチャル空間に行く際のオシャレ、つまりアバターのファッションを調べているうちに「あ、自分はこの傾向の服が好きだな」とか「こういう派手なものより、もっとあっちの落ち着いたものの方が良いな」と、少しずつ目が肥えてきた。「アバターの服を選ぶうちに、それが現実のセンスにも影響される」というのは、VRに触れていない人には奇妙に思えるかもしれないが、触れたことがある人なら分かってくれるはずだ。

そういったことの積み重ねの末、冒頭の革靴を購入し、思わぬほど満足を得たわけである。今は「周りにどう見られようが、自分が満足いくものが履けているのだから、それが良い」という心境にまで至れて、これは20代の自分から大きな変化だろう(「成長」と言っていいのかは悩ましい。おそらく20代の自分は今の自分を軽蔑するからだ)。

そして、やっぱり驚いているのは「内面を磨けば、外見にも表れる」ことに否定的だった自分が「外面を変えれば、内面が充足する」という事態に出くわしたからである。これは今までの話の道筋からすると、ちょっとおかしい。

話を一度元に戻すと「自分は今のままじゃダメだ、だから内面を鍛えるべき」といった考えで内面の成長を探った後、その考え方を「結局は外見にステータスを振っていないから、外見的には意味ないよね」と否定した。しかし「内面とは関係ないはずのファッションにこだわってみることで、自分の内面が変化した」という事態に出会い「もしそうなら、逆に内面を鍛えれば外見にも影響が現れるというのも、あながち否定できない?」という考えになって……頭がこんがらがっている。

そんなタイミングで思い出したのが、石川淳という小説家の『面貌について』という随筆の冒頭だった。

黄山谷のいうことに、士大夫三日書を読まなければ理義胸中にまじわらず、面貌にくむべく、ことばに味がないとある。

『石川淳随筆集』澁澤龍彦編(平凡社ライブラリー)

要するに、三日間も本を読まないと、心の中に道義がなくなって、顔つきも悪くなって、言葉にも味が無くなってしまうということで、石川淳はこれを前提に置いたうえで小説論を色々展開していくので気になった人は読んで欲しいが、ひとまず置くと、あながち「精神の充足の結果、外見も充足する」という話は本当かもしれない。昔の人も言っていることだし。

すると見えてきたのは「自分は本を読んで精神を充足させたと思ってきたが、外見にそれが表れていない以上、自分の精神の鍛練は不十分だった」という話だ。そりゃ20代で心を鍛えられるほど、人生は簡単なわけがないか、ションボリ……と、なった。

で、ここから得た学びは何だったかと言えば「外見も内面もまんべんなくステ振りすれば問題ないじゃん」という話に戻ってくるわけで、やっぱり芯の無い人間であったことだけが合っている。

なんていうか、もっと心も体もオシャレに生きていきたいものですね。

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