穏やかな時間は不意に

このサイトでは、大意として「忙しくて心が死んでいる」ということばかり書いていて、それは確かに今もずっとその通りではあるのだが、それでも時折、穏やかな時間が不意にやってくることがある。

例えば、ヨチヨチと歩きはじめた我が子と手を繋いで公園を散歩している時であったり、仕事終わりの電車の中、スマホのバッテリーが切れた時であったり、ふと何かからの責任や義務感といったものから、ふわりと抜け出したかのような間隙に、穏やかな時間がある。

もちろん「抜け出したかのよう」であり、実際は抜け出していない。子どもといるとき、常につきまとう死の匂いに敏感でなくてはならないし、編集者の仕事に明確な終わりなどないからだ。「親」や「社会人」という役割は、簡単にはこちらを手放したりはしない。こちらも、その役割を手放すことが、どんな苦しい展開になるのか予想できている以上は。

それでも、穏やかな時間がやってくるとき、突然のプレゼントをもらった時のように嬉しい。なのに「そんな時間を得たのだから、何か普段はできない特別なことをしよう」なんて考えた瞬間から、穏やかな時間はたちまちのうちに溶けて無くなってしまう。それが例え、「坐禅を組んで精神を整えよう」なり「ヒーリングミュージックを聴いて心落ち着かせよう」なり、何かしら心身に前向きな活動であったとしても、そう考えた瞬間に穏やかない時間はタスクになり、タスクが終わった後は「自分はしっかり回復したか」のチェックがはじまる。そうであっては、消えるのもしょうがない。 

だから穏やかな時間は、穏やかな時間として受け止め、そのまま過ぎていくのを感じていることしかできない。いや、もしかすると「感じよう」と思った時点で、もうダメなのかもしれない。ただ過ぎていく。そうして、フィルムカメラの現像のように、ひとつの風景として浮かび上がってくるのをじんわりと待つ。その風景の中、たしかに自分は生きていたのだと、後からでも確かめられるように。

コメントを残す