最近また音楽を聴けるようになってきた。
相変わらず、朝起きると、コロナの後遺症なのか、喉に張り付く真っ黄色の痰に咳き込むし、脳にモヤがかかっているかのようにボーっとしてしまうこともある。息子はメシを嫌がり、食卓のあらゆるモノを投げ飛ばし、仕事の忙しいタイミングで高熱を出して保育園から返却される。妻は常に寝不足で機嫌が悪く、無限にも思える細かな家庭のタスクを前にして、しょうもないケンカを繰り返している。仕事は無限に積み上がり、午前中にレッドブルとコーヒーを胃に流して、どうにかこうにかこなしている。
それでも、また音楽を聴いて楽しめる感覚が自分の中にたしかにあって、その感覚がすり潰されていないことにホッとしている。
つい最近までは「そんな時間があるなら、やるべきタスクはあるだろ」という声が耳を完ぺきに支配していて、どんなエンタメに触れても純粋に楽しめなかった。これは、仕事のためなんだ、後々のために必要なんだという、誰宛なのか分からない“言い訳”を重ねることで、罪悪感を抱きながらでしか、娯楽に触れられず、自分はダメな父親、ダメな社会人であるという想いが日々強くなる一方だった。
以前読んだイーサン・クロス著の『Chatter 頭の中のひとりごと』では、ネガティブな思考を現実の声(チャット)のように受け取って、自分の行動を自身で著しく束縛し、よりネガティブな思考から抜け出せなくなるという現象について書かれていて、自分がまんまとそのパターンにはまりこんでいることに気づき、ギョッとしたのたが、ギョッとするだけで、それが根本的には解決しないまま、今に至っている(ちなみに、本の後半にはその具体的なケアの例を挙げてくれてはいて、その解消法には納得する部分もあることは言い添えておく。ただ、それをする余裕が無かったのだ)。相変わらず自責の声は大きく、それは時折、妻や息子の声に変容し、現実には言われていない説教を聞いた気になって、それが元で逆(?)ギレをすることもある。申し訳ないと思う。
それでも、また音楽を楽しめるようになっている。自分が音楽を聴く理由の何割かは、もしかすると自分自身へ向けられたネガティブなチャットを掻き消すためにあるのかもしれない。音に集中しているとき、ここでは無いどこか別の空間にいる感覚があり、音楽の見せる風景の移ろいを目で追っているような気がする。歌詞を読み、耳を澄ませて浸る時間が、やりきれない日々の圧力を緩衝してくれているのかもしれない。
ここ数日、嬉しいことがあって、かれこれ3年くらい追いかけ続けている音楽ユニットYSSが、とあるきっかけで多くの人の目に触れることになった。
詳しい経緯は、上記の動画の後半を見てほしい。リアルタイムでこの配信をみて、多くの視聴者(1万4000人ほど?)が、2人のパフォーマンスに衝撃を受けてる様子に、心の底から「よかった」と思った。自分の好きな音楽が、他の誰かの耳にも届き、かつての自分がそうであったように、心を揺さぶられている。
なぜ、自分の好きなものが他の誰かにも広がっていくと、嬉しく思えるのだろうか? 自分が認められているように感じるからだろうか? しかし自分は実質何もやってないわけだから、その感情は奢りでしかない。ただ、ライターというのは、多かれ少なかれ、そういう邪な気持ちの上に成り立っているものだとも思う。俺が好きなものは、きっと他の誰かも好きに違いない。だから広めたい。気づいてほしい。そうすれば俺は孤独じゃないことを確かめられる、といった具合に。はたからみれば愚かかもしれないが……。
しかし、そうでなくとも、2人の活躍の幅が広がることで、より良い音楽が生まれ、(自分を含む)世界が、ちょっと良くなる気がする。それは信じられる。自分のように日々の鬱憤から生まれる自責のチャットに苦しみ人たちの耳を素敵な音楽で埋めてくれる。そう思える。少なくとも今の自分の耳には、YSSの音楽が必要で、そのおかげで、どうにかこうにか生きている。
