感情は肩凝りから生まれゆく

生前の伊藤計劃が、ガンの治療中に投与された薬の影響で自分の感情の鎮まっていく様を体感して、身体に薬一つ入れるだけで変わってしまう自我の儚さに戸惑うというような話を、ブログか何かに書いていたと記憶しているが、(これほど壮絶な例ではないにせよ)自分も、自分の気持ちが身体の不調一つでコロコロと変わり、右往左往されることが増えてきて、最近は全く「自分の本当の気持ち」だとか「これだけは信じられる」といった確固たる心の持ち用を持てないでいる。

1週間ほど前、息子を抱きすぎた影響で、ギックリ腰の一歩手前くらいのレベルの腰痛が起き、気になってペインクリニックに診察してもらったところ、自分の身体の真に酷いところは、腰ではなく肩と首であり、特に首はストレートネックを超えて、逆方向に傾いたまま固まっていると診断された。その際、医師に頭痛の回数を聞かれ、月に1、2度と返したところ「多すぎです」と返されたことに驚いた。一般の人たちは毎月そんなには頭痛に苦しんでいないらしい。

治療として、注射と電気マッサージを受けたのだが、受けた直後に衝撃だったのは、自分は常に首と肩が激しく痛かったのだというのを、その時になってようやく自覚したことだった。

俺はいつのまにか、ずっと痛かったのだ。しかし、その痛みを痛みとして自覚せぬまま「なんかストレスがある気がする」「最近心持ちがとても重い」という、もっぱら感情側の問題として捉えていたのである。肩と首の凝りから自分の不快な感情が湧き出し、最近の暗い自我を育むひとつとなっていたわけだ。

しかし当然、それほど激しい肩凝りになってしまったのは仕事や子育ての問題に日々終われているからという可能性もあり、そこは卵が先か鶏が先かということではあるのだが、人は自分自身の痛みすら正確には判別できず、それゆえに精神のことばかりに集中がいってしまって、余計な負担を抱え込んでしまっているのかもしれないと思うと、なんだかやるせない。

いつか、この痛みが改善(長期的につきあうとこになると医師から宣告されたが)した際、肩凝りから生まれた感情は、やはり全て偽物だったと納得することはできるのだろうか? 治った頃にはまた僕の預かり知らぬ新たな身体の不調により生まれた感情に支配されて、それどころではなくなっているのだろうか?

いずれにせよ、今は誰でもいいから、この肩凝りを取り除いて欲しい。そんな感情だけに頭を支配されている。

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