困ったことに最近の自分は全く文学少女ではなく、ただのうめき声をあげて肩凝りに苦しむ小太りの中年である。本を読む時間も気力もなく、かつてのように読書会を開くなどといった漲るやる気を出すこともできず、情けなく生きている。
作家の石川淳は『黄山谷のいうことに、士大夫三日書を読まなければ理義胸中にまじわらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある』と書いたことがあって、それをここで紹介すると、なんだかまた聞きのまた聞きみたいにはなってしまうが、本を読まないでいると、顔にそれが滲んでくるぞということで、今の俺はさぞ醜い顔をしていることだろう。
どれだけ醜悪かといえば、『花束みたいな恋をした』という映画は、サブカルに熱い気持ちのあるカップルが通勤と労働に疲れて別れる話で、やっぱり労働と通勤って悪だよね、人はよほどの収益と余裕がないと若い時のままコンテンツへの情熱を保てないよね的な誰かの感想をTwitterで目にして、「ほんと、そうなるよねー、タハハ」となり、それだけで本編を観ずに満足してしまったくらいには醜悪である。かつての俺であれば『ちゃんと自分で作品を観て判断しろ!』と叱ったはずである。多分、きっと。
また、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という新書のタイトルを書店で目にして「絶対に俺のことを説教するタイプの本だ!」と思って、なるべく視界に入れないようにやり過ごすくらいには偏屈な臆病者になっている。おそらく読めば良いことも書いてるんだろうなとは思うが、その内容を受け止められるだけの器が、今の自分にはない。
とはいえ、読みたい気持ちは米粒程度にはあるので、書店には向かう。そして、気になった本を一応買って、読まずに積む。いつか読むだろうという過信を重ね、本棚は入りきれなくなる。無意味な所業である。最近では「本は積むだけで徳がある」「表紙を見るだけでも良い」という、知識人の優しい嘘から始まった民間信仰をSNSで見かけるが、やっぱり本は読むものであり、読まなければ意味が生じない。「本を読むなんて、歯磨きと一緒でしょ」とサラッと話したことのある某先輩の顔を思い出しては、申し訳なくなる。
出版社でバイトしてた頃、上司から「ゆりいか君、30代になるまでには、20代までに貯めた貯金なんてあっという間に尽きてしまうからね。30代はそこからが勝負だから」という話を何度もされて、当時はピンと来るはずもなかったが、何となく警句として覚えていて、ここ数年でようやく「これのことだったのかー」となっている。
世の自己啓発本やライフハック記事には、すきま時間の効率のよいインプット方法などが様々に書かれているが、そもそもそれらの前提が「育児に追われていない、自己研鑽のための時間のある人」向けのそれであることが多く、ほぼ意味をなさない。朝は保育園の連絡帳を書きながら、赤子にパンを食わせるのに必死で、朝活など、できたものではない。
ここにこうやって誰に届くかも分からない文章を書いているときだけ、かろうじて息ができている気がする。しかし、インプットが足りないので、書きたいことは日に日に思い浮かばなくなる。気持ちも擦り減っている。それでも何か、仕事以外の、自分にとって大切な何かを、書きたいとは思う。
