柔らかな季節、柔らかな記憶

子どもが少し発話するようになった。

正確には「パパ」「ママ」「(指を刺して)コレ」「(果実のなる木を見て)カキ」など、覚えた単語何個かを繰り返し声に出すという感じで、時折俺を指差して「ママ」と言ったり、日本語になっていない独自の言葉を話したりすることもある。しっかりコミュニケーションをとれているのかと言えば微妙なのだが、俺をみると笑顔で追いかけてくるので、息子の中では「パパ、あるいはママという近くにいる存在」として認識していることは確かで「パパ、あるいはママには、食べ物を投げたりヒゲを引っ張ったりしても良い」と思っているはずである。

この成長は素直に嬉しいし、息子が以前より、さらにかわいく見えるようになった。生まれたばかりの頃は焦点の合わない目でボンヤリしており、おっぱい以外のものには無関心。俺の存在は無いもののような感じでいたので、この違いは大きい。我が子には無条件に無償の愛を注げと思うかもしれないが、やはりなんらかの返事や反応がある方が喜べる。成功報酬を求めがちな現代人の悪いところだろうか……。

振り返れば、言葉がなかった頃の記憶を、ほとんど憶えていない。三島由紀夫は生まれた頃の光景を記憶しているみたいな話をどこかで書いていたような気がするが、言葉もなく、目に見えるものの輪郭もはっきりしないような状態で(生まれたての赤子の視力はめちゃくちゃ低い)何をどう覚えていられるというのだろう。ギリギリ覚えてるのは2歳頃のもので、当時の実家にあった鹿の置物やベビーベットに吊るされていたクルクル回るオモチャなど、断片的なモノの記憶ばかり。自分が生まれた後、まもなく亡くなった曾祖母(最後まで可愛がってくれたらしい)のことは覚えてないのだから、つくづく不義理な人間だと思う。

では、覚えていない時期の記憶は、人生において損をしている無駄な時間なのだろうか? 思い出せないという側面から見ればそうかもしれない。ただ完全に無駄だと割り切ってしまうと「どうせ、赤ん坊の頃のことなんて覚えてないんだろ?」的な思考で、子どもを雑に扱うことにも繋がりかねないので、はっきりした割り切りはマズい。育児の専門家ではないから本当のところどうなのかは分からないが、自分の中では「色々なことをこれから覚えていくための準備をしている時期」なのだろうと解釈している。だから「覚える」というコマンドを得るまでに色々なものを見せて、子どもに「あ、これ覚えておくと、あとで思い出せて楽しいのになー」と思わせること自体は、まぁ可能だし、必要じゃないかなと思っている。多分、俺もそうやって世の中に興味を持ち、何かしら関わると楽しいことに気づいた時間があったはずだから。

息子はいつも目をパチリと開けて「全てのことを覚えてやるからな」といった態度であらゆるモノに手を伸ばしている。その瞳の奥を見つめると、本当に生まれてから全てのことが詰まっているように感じられるから不思議だ。公園に差し込む秋の柔らかな日差しから、枯れ葉の中に埋もれているドングリのひとつひとつに至るまで、まだ柔らかい頭の中に大事にしまわれていっているのかもしれない。

コメントを残す