最近『シェンムー』をやっている。「なんで今さら?」ってなるほど古い作品だが、仕事が忙しすぎて、頭休めに昔のまったりとしたゲームをやりたくなったのだ。
このゲームは主人公の高校生・芭月涼を操作して、横浜の街を探索するという内容だ。父親を殺した犯人を探すため、近所の知り合いに聞き込みしたり、チンピラを殴ったり、アルバイトしたり、色々なことをする。自宅のタンスを全部開けてみたり、100円のガチャガチャをひたすら買ったりといった細々したこともできる。発売当時は街のリアルさや思うままに行動できる自由さが話題となっていた(ような覚えがある)。
先に書くと「めっちゃ面白い! 最高! 神ゲー! ハッピー!」という感じの作品ではない。現代っ子(?)からすると、あまりの刺激の少なさにすぐ退屈してしまうだろう。あまりにリアルな日々を再現しようとして、日常の「退屈だな」と思う部分まで描かれているからだ。
例えば登場人物の誰かが「明日3時に待ち合わせな!」といったら、本当に(ゲーム内時間での)明日の3時まで待つ必要がある。その間やることがないので街を徘徊したり、ゲーセンで遊んだりして、時間を潰さないといけない。また夜の11時半までには家に帰らないと家族が怒るから、イベントが進みそうでも一旦止めないといけない。登場人物たちにもそれぞれ都合があるから、簡単に主人公と都合に合わせてくれるわけではないのである。
特に中盤からの港湾施設でのバイトは本当につらい。朝7時半に目覚め、港町までバスに乗って行き、荷物運搬車を使った謎のレースに参加させられ、淡々と荷物を運ぶバイトを17時までこなす。重要なイベントの探索は昼休みの2時間と就業後しかできないので、物事が遅々として進まない。肝心のバイトのミニゲームも、マジの単調作業なので早い段階で飽きてしまう。こんなに「暇すぎる…」と思いながらプレイするミニゲームは初めてかもしれない。
ただ…たしかに退屈だが、この退屈さに何かすごく奥深いものがあるようにも思ってしまう。なぜなら港湾施設で延々とバイトしていると、現実で本当にバイトした気分になれるからだ。朝起きてバイトに向かう時の「またかよ、今日くらい休みてぇ」という気だるさ、休憩時間の「あと30分で仕事かぁ」となるかったるさ、仕事終わりにバスに乗ったときの「あぁ今日もだるかったな…」となる疲労感…こんな感情がゲームで鮮明に呼び起こされるのだ。
それでも単純作業中の妙に調子が乗ってくる感じや、ノルマを超えたときに時給が少し上がるときの嬉しさなど、そういった些細な喜びに支えられ、何とかプレイを続けている。「なんで俺はゲームの中でも働いているのだろう?」と疑問が生まれるが、だんだん思考が横にずれて「そもそも仕事とは何なのだろう、生きる以外の理由で働く意味とは…」まで発展していく(何なんだこのゲーム…)。
もしかしたら製作者には「日々の退屈さにこそ目を向けろ」という信念があるんじゃないだろうか? たしかに80年代の景色が忠実に再現された街の探検はちょっとした観光気分を味わえるし、骨董屋に置かれた古美術品や家の引き出しの中の小物の数々には、クリエイターのこだわりが感じられる。日常の細々としたものに目を向け、そこに楽しさを見いだせる人ほど、このゲームの体験は味わい深くなる。ただ与えられるエンタメを享受するのではなく、自分で日常を楽しむ術を持つこと、そんなことを伝えたいのかもしれない(思い込みかもしれない)。
正直それがゲームの面白さと結びついているかは分からない。だが忙しい日々の中、ゲームの中だけで「退屈」という感情を思い出させてくれたことには感謝したい。思うに、退屈とは贅沢品である。歳を重ねるほど、お金を稼いだり、家族を支えたりといった目的に急かされ「ぼんやり」できる時間は少なくなる(それにスマホに時間を奪われまくっている)。
「何もやることはない」はさすがに困るが、「今日はそんなにやること無いな」くらいの退屈さこそ、最も心がゆったりする状態だ。『シェンムー』はバス停でバスを待っているときや、駐車場前で誰かと待ち合わせするとき等、細々とした「退屈時間」をつくってくれた。それだけで充分良いゲームだと思う。
皮肉なことに、主人公の芭月涼にとっては父を殺されてからの日常は、すべてが覆ったものであり、彼だけがプレイヤーのような「退屈」を享受できていない。このすれ違いも面白いのだけど、ストーリーがまだ完結してないので、感想は最終編がリリースされてからで(出るのかな…)。とりあえず「2」まではやってみようと思う。