日記:おにぎりふたつ

20代フリーターの頃は毎日貧乏していて、バイト前の朝に食べるのは、ほぼ必ずコンビニで買ったおにぎりふたつ。味の組み合わせは何でもいいし、トボトボ歩きながら食べるので、味の感想は特に無い。それで腹を満たしたことにして、スーパーのレジに流れてくるご馳走の数々を黙々とバーコードスキャン。「いつかはこんな暮らしが変わるのだろうか?」という気持ちと「今日も何事も起こらない平穏な1日でありますように」という気持ちが併存する、今思えば奇妙な日々だった。

そんな日々が少し変わったのが27歳の頃で、急に目黒のオフィス街のバカでかいビルに出社する日々が始まり(※後にリストラされる)、慣れない仕事に悪戦苦闘。ノルマを何とか間に合わせるために、残業が当たり前となり、別段忙しくない時も仕事のミスを箇条書きにまとめて、何が悪かったのかを見直していた(この頃、自分は本当にモノを書く仕事で食っていけるのかの不安が強烈だった)。そんな時に腹に無理やり詰め込むのは、おにぎりふたつ。相変わらず味わう余裕は無かった。急速に太ったり痩せたりを繰り返していて、ゴールデン街のバーのお客さんたちにその変化を笑われたのを覚えている。

先に言ってしまうが、この話は「今は生活が安定してきて、食べ物にも余裕をもって楽しめるようになった。あの暗い青春時代のおにぎりふたつはとても懐かしい」といった成功者のエントリーにはならない。今は、生まれたばかりの赤子に飯を無理くり食わせるのに必死で、保育園に送って出社する間のわずかな時間に、やはりおにぎりふたつ、口に詰め込んでいる。くたびれて夕食を作るのも忘れて寝入り、おにぎりしか口にしてない日も、時々ある。身体が痩せなくなったことが、数少ない変化のひとつかもしれない。

この先も、自分は何かとその時々の時代や環境の変化の波に巻き込まれては、ろくに味も覚えていないおにぎりふたつを胃に放り込んで、仕事と生活をやり過ごしていくのはないだろうか?

ところで、世の中は「おにぎりふたつ」を食べることに関しては、貧富の差があまり無いのかもしれないと思った。投資家であろうが、取締役であろうが、フリーターであろうが、忙しいときの飯というのは似たり寄ったりなもので、「コンビニに行ったことがない」というレベルの富裕層を除けば、胃に収まっているものは大体同じだ。過去にヒカキンが深夜コンビニに立ち寄る姿を週刊誌がすっぱ抜き、それを読んだネットの人々が「ヒカキンはやはりスキャンダルがない」とキャッキャしていたが、(たとえ動画の収録用だったとしても)日本のトップYouTuberが食べているものですら、我々と大差はない。

そういえば誰かが「金持ちもそうでない人も、皆がスマホを持ち、ネトフリを観ているのは、貧富の差のない幸福な状態だろうか?」と質問していたことがあった。自分の答えは否だ。金持ちは、明日の金の心配や差し迫った締切を考えることなく、落ち着いた場所と時間を確保して、じっくりとネトフリを楽しめる可能性がある。貧乏人には暇がない。満員電車の中、息も絶え絶えの中観るアニメや映画にどんな感動を得られるというのだろう。

体感的な貧富の差には、金だけでなく、時間が大きく関わっている。時間を確保するために金がいる。だから働き、金を稼ぐ。稼いでいる間に時間は消える。今という時間は失われ続け、金は手に入る。そして、その金でおにぎりをふたつ買う……。そうやって効率的にしたことで生まれた時間で、それでもやはり金がないから働く。

腹は減る。時間は進む。金は消える。胃が弱り、歯が溶け切って流動食しか口に入らなくなったとき、ようやく、おにぎりの日々から開放されるのかもしれないが、そうして目の前にどれだけの金と時間が残っているかは分からない。締めの文章が思いつかず、袋小路。今日はここで止める。

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