メモをとる、息子の鼻水を拭く

最近、小さなメモ帳とペンを買い、自分がふと思いついたり普段考えたりすることを書き留めるようにしている……。と書くと、いかにも意識の高い、自己啓発的な匂いのする嫌味ったらしい習慣自慢に聞こえてしまう。

とくに近年は「ジャーナリング」という、思考を言語化・記録する習慣が、ビジネスマンの働き方の見直しという文脈で推奨され、AIに記録したライフログを入力して、自身の今後の生き方を演算させるなどということがポジティブに語られている中にある。

また、ロルバーン手帳やシール手帳などの流行で、紙に何かを残すこと自体がオシャレで文化的な行為とされるようになり、何もかもがデジタル化していく中でアナログなものに回帰し、自分だけの記録を残すことの価値を見直そうなどと言う言説も各所で見受けられるようになった。

それは、膨大な情報の処理に追われる現代人の抵抗であり、ケアであるといった言説は、文化人たちの手によって、いかようにも書かれている。その賛否も、どこかでは激しく議論されていることだろう。ただ少なくとも僕がこの文章の中で言いたいことは、ちょっとそう言うことじゃない(こういう断りを入れないと、すぐに何かの言説に被れたと思われ、冷笑の対象となるのが現代の厄介なところだ)。

なぜメモを始めたかと言えば、もっと素朴にカッコいいと思ったからだ。

今年の4月29日、何があったかと言えば、ご存知の通り、梅原大吾 vs MenaRDによるストリートファイター6の死闘「獣道」である。もちろん自分もリアルタイムで視聴したし、その試合の流れの中で生まれたドラマについて誰かと長く語り合いたい思いはあったが、その中で深く印象に残ったのが、両選手のメモを見る時間である。

詳しくない方向けに説明すると、格闘ゲームの大型試合では、そのほとんどで携帯電子端末の持ち込み(試合中の確認)が禁止されている。持っていれば、誰かからリアルタイムにアドバイスを受けたり、攻略サイトを確認したりできるので、その禁止は真っ当なのだが、唯一、自分の攻略情報をメモしたノートは持ち込みができることが多い。

獣道の場合もそうだった。試合が半ば過ぎたあたりで、両者がお互いのノートに真剣に目を通すブレイクタイムがあり、それが自分にとっては試合以上にカッコ良いものに見えたのだ。頼れるものは自分の身体とノートのみ。なんというか、極限の状態でノートに書いた自分の言葉だけを頼りに進もうとする様が、人生そのものにも重なって見えたのである。

そういえば、梅原選手は過去にも講演会か何かで、ゲームに飽きたと感じ始めたら、それは自分に変化(成長)が無くなっているということ、だから「今日は自分のプレイスタイルのここが成長した」というポイントをノートに書いて変化を実感できるようにしておくといった趣旨のことを話していた記憶がある。また、自分の好きな日本語のラッパーたちも、紙とペンを使って己との対話の時間をとることの重要性を解くことが多い。自己との対話、相手との戦いの場において、自分の手札にあるものを探り、書き出し、より思考を深める、そういった作業は欠かせないものなのだろう。やっぱりカッコいい。

そういうわけで、最近の休日は、だいたい昼頃に自分の腕の中に眠る息子を左腕で抱えつつ、右手で最近やりたいことや今考えていることをノートにメモするようにしている。その間だけが、自分による自分のための対話の時間。時折肩に垂れてくる涎や鼻水を拭きつつ、自分はこれから何がしたいのかを、ペンでひたすら走り書きしている。

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